ファンキージャムは1981年の開校当初からアンブラップダンス(ソウルダンス)のためのダンスミュージックのレコードをディスコ並みに用意してありました。
ダンスミュージックがあってのダンスだからです
スクラッチのDJはディスコのダンスイベントでモンチ田中を知り、ブレイクダンス・ショーの参加をお願いしたのです。
モンチもスクラッチを生かしたDJをしたいと願っていましたので、即メンバーになりました。
しかしその頃、日本ではスクラッチ専用のミキサーは発売されていなかったのです。
ディスコの業務用ミキサー(クロスフェーダーのないミキサー)でスクラッチしていた唯一のDJで、日本では圧倒的に先を行っていたのです。
ベスタ小僧(日本初のクロスフェーダーのミキサー)が発売されるまで、私が特注のミキサーを作り練習をサポートしました。
(業務用でスクラッチの練習中のモンチ)写真と映像はrecordから!
当時の日本では、まだヒップホップ・レコードの販売は少なかったのです。それにレコードだけでショーをするのは足りないと思っていました。
ブレイクダンスはロックスタディのショーからDJとラップのライブなスタイルが必要と感じていました。
そこで基地の友人にラップ上手が数人いましたのでお願いしようと思いました。
その中で親友のルイスがビートボックスとラップ上手で最高でした。しかし、仕事の都合で基地から離れられなかったので参加できなかったのです。そこで自由の効くロバートが協力してくれました。
(CBSソニーでレコーディング中のロバート)
ファンキージャムのレッスンの一つにエレクトリックブギの基礎となるポップロック(ムーンウォーク等を含む)がありました。
すでにノウハウを作成してありましたので、開校まもなく大手広告代理店に参考ビデオを収めていました。
雑誌やダンスイベントでも紹介していましたが、映画”フラッシュダンス”の公開で一般がブレイクダンスを知るようになりました。
その後、映画”ワイルドスタイル”のキャンペーンで紹介され有名になりました。
ブレイキングの練習はロックステディの来日後から本格的に始め、多くの生徒が参加するようになりメンバーがそろいました。
ファンキージャムは唯一のディスコダンスを含むアンブラップダンス(ソウルダンス)のスクールだったので、レコード業界等には知られていましたので交流がありました。
しかし、その頃はスクラッチに関しての情報は少なかったのです。そこで自薦他薦を見学に行きました。
当時、クロスフェーダーのスクラッチミキサーは日本製がなく、米国製を数人の日本人が所有していてスクラッチを見せてもらったことがありますが、やっとやっている程度でした。
クロスフェーダーのない業務用の大型ミキサーで、スクラッチしているモンチ田中を見て驚きました。ハービー・ハンコックのLockItが発売された直後にDSTのスクラッチを完全コピーしていました。当時のイベントと練習風景のビデオがあります。
何でも先を行くには多くの困難を克服しなくてはいけないのです。NYでやっているのではないから道具も手本もない。スクラッチにしてもレコードや下の素材、レコード針の選択、針圧、やり方など全てを自分で研究しなくてはいけないのです。
教えてくれる人は皆無だから大変なのです。
当時、私の知る限りではモンチが最初のスクラッチDJです。
そして、ファンキージャムのダンスミュージック・レコードを知る事で、FM横浜のメガミックスにつながったのです。
※写真はワイルドスタイルの来日DJが使用していたミキサー
エレクトリックブギに関しては困難といえます。
何故なら現代のようなダンススタイルではヒップホップのエレクトリックブギとは言えないからです。
1980年頃には今と同系のポップロック(マイケルのダンススタイルも同じ)は米国にポッピング好きがいましたし、ポップロックでは日本の基地にもダンス上手がいました。
しかし、NYのエレクトリックブギではなかったのです。
その後、アンブラップからポップロックを教えてもらった日本人は数名いたと思いますので、誰が先とは言えません。
それぞれ多少違いはあったのですが、ほとんどが西海岸のポッピングの強いポップロックのスタイルだったのです。それはポップロックであってブレイクダンスのエレクトリックブギではありません。
ファンキージャムもエレクトリックブギに挑戦しましたが、そこまで到達してはいないと思います。
ブレイキングに関しては、日本ではロックステディの来日がスタートと言えます。ファンキージャムでも専用の練習アイテムを用意して毎晩遅くまで練習していました。
そんな中で、先に練習していたフットワークの上手の七類(トニーT)がウインドミルをやり、タカシ、カズマと1か月後には3人になりました。
それがフジTVの国際スポーツフェアに間に合うことになりイベントの成功につながったのです。
レッスンのノウハウ作りに練習をビデオ撮りしてあるので間違いないのです。
その後、飛び入りで参入した梅村がWやノ―ハンドのウインドミルをやったことに驚きました。彼がすでに出来上がっていたので、梅村が最初のブレカ―なのかも?
音楽もダンスも最初にやるには多くの練習と無駄の積み重ねをしなくてはいけないので、一人でできるようになることは大変なのです。写真は梅村ゴローのウインドミル。
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