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ダンスとダンスミュージック

SINCE 1981 FunkyJam
世界初のヒップホップ・ダンススクール
Amblap

ジェスパMember

ブレイクダンスへ

店内イメージ

アンブラップダンス(ソウルダンス)のダンススクールとして開校したが、まだ誰もがやっていないダンススクールの挑戦だったので、生徒の増加は鈍かった。

ポスターやチラシの配布などで見学に訪れた人にアンブラップのダンスレッスンだけではなく、ポップロックとムーンウォークやウェーブの紹介もしていたので、その分野での生徒も数名いた。

カズマとツヨシができるようになり、タカシが参加した事でストリートでパフォーマンスする事を決める。
ツヨシは当時、水上スキーの若手No1だったので、ダンスを専門にすることはできなかった。
タカシは勤めを止めたので生活困難なり、私が原宿に寮を作る。

カズマとタカシで映画”ワイルドスタイル”のキャンペーンを含めたイベントの活動をするための土台作りをする。そのキャンペーン活動がテレビで紹介されて有名なり、ブレイクダンスのスクールとして本格化する。

ダンスに限らず若者の夢の実現にはサポートが必要、特に社会で認知されていないものは、昔の経験から援助が大切と思っていた。

ブレイキングについて
私は器械体操の選手だったので、ブレイキングには興味がなかった。それほど難しいものとは思わなかったし、若者がやらないと面白くないとも感じていた。映画公開で来日したロックステディのダンスするブレイキングを見ていなければやらなかったかも知れない。


ファンキージャム・ブレーカーズとは

店内イメージ

ポップロックはポッピングが強いと誰もが同じになりつまらない。個性がなくなりヒップホップのスタイルには欠けると感じていた。

開校当初からアゴヒロシのソウルダンス・スタイルにティク、マネキンなどを混ぜることで違うものになる可能性を感じていた。
強いポッピングしなくても身体の使い方で面白い動きになると思っていたので、その動きをレッスンに取入れていた。

ファンキージャム・ブレーカーズは主に、ファンキージャムの生徒からなるブレイクダンス・グループで、ダンスイベントの参加者は9才〜20才位まで数十名になる。

映画”フラッシュダンス”の頃からディスコのイベントなどで、先に活動していたファンキージャム・ガールズのおまけのようにパフォーマンスしていたが、映画”ワイルドスタイル”以降に活動が増える。
この頃からテレビのバックダンスの出演が多くなり、ベストテンや演歌歌手のバックダンスも依頼されたが、宣伝のため我慢してもらった。
最初のビッグイベントがフジTVの国際スポーツフェア・ミズノブースでの参加。
それがきっかけとなり、コカコーラ、パイオニア、J&Jなどにつながる。
その後、ナイキの全国ツアーに協力する。

資料はRECORDからお願いします。

ダンスはニューヨークのブレイクダンス・スタイル。
当時の日本ではまともなブレイクダンス・グループはなく、スクラッチDJとラップのバックでブレイクダンスのショーをできたのはファンキージャムだけだった。



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